拒絶の形式(副題:SNS を絶つ方法)

覚書。

むかし自分で思いついて,知り合いにも何回かすすめたことがある。SNS を絶つ方法である。

浪人生のとき,おれは勉強しないといけなかったのだが,ただログアウトするだけではすぐに誘惑に負けてしまって,時間の捻出に失敗していた。その実績を相当に積んで,推薦入試の論題にでもするかと考えていたころ,それほど苦心もせず,はたと思いついたことである。

 

そんなにむつかしい話ではない,そもそも,おれが発明したんだぞ,とか,大口を叩けるたぐいではない。

文字列をランダムに生成する。それをあたらしいパスワードにする。できるだけ長いものがよい。

手元でそれを暗号化して,信頼できる友だちに渡して,保存してもらうように頼む。「信頼できる」というのは,パスワードを悪用されない,とかそういう話ではなくて,「この文字列をしばらく預かってくれ」と言えて,実際にそのようにしてもらえる相手である。逆に,パスワードそのものだって渡していいような友だちも,ごくまれには居るものだが,その友だちが,ものの保管や整理にかんして著しい不得意を抱えている場合には,不適切な相手といわざるを得ないのである。

言うまでもなく,パスワードに容易につながる情報は,仲の良い友だちにさえ渡すべきではない。だから,容易にはつながらない情報を渡すのである。暗号化には,かならず復号のコストの大きい手段を選ぶ。PASSWORD を QBTTXPSE にするようなのでは全然だめである。非常にコストの大きい手段を選ばなければならない。もちろん,どこまで暗号化したとしても,パスワードに原理的に繋がりうる文字列を誰かに渡すのに拒否感を持つ方はおられると思う。それならばそれまでである。

おれに関していえば,たとえば 24 桁の文字列を乱数で複数生成して,切ったり貼ったりすることで,比較的に復号コストの高い暗号を生成したのである。いま次の2つの文字列がある。

3McnEx7rYatnMuLzZQsUspuR
atjs3BsWedyJWcuhAgwXDcgG

3McnEx7rYatnMuLzZQsUspuR をあたらしいパスワードとしよう。このパスワードを,15+9 文字に分解する。もうひとつの文字列も分解する。

3McnEx7rYatnMuL - zZQsUspuR

atjs3BsWedyJWcu - hAgwXDcgG

9文字の部分を入れ替えると,3McnEx7rYatnMuLhAgwXDcgG を得る。これを友だちに伝える。手元には,

hAgwXDcgG ▶ zZQsUspuR

のようなメモを残して,復号に備える。むろん,紛失してはならない。

 

かんたんに考えれば,このように作った暗号からパスワードを割り出す労力は,「15+9」という構成を知っていたとしても,大小英数字からなる9文字のパスワードを特定するのとおなじ位なのである。構成は自分だけが知っていればよいし,どのように暗号化されているのかも明らかにしなくてよいわけだが,その無前提に立つならば,復号はもうたいへんにむずかしいのであって,並の友だちにとってみれば不可能に近い。おわかりいただけただろうか。

おれのほんとうのやり方はちがうというか,いますこし複雑である。この記事を読んだ,おれの暗号を持っている友だちが,じつは知られざる悪意を抱いていて,おれのパスワードを特定しようとするかもしれないので,ほんとうのところを書くことはできないのである。

 

暗号化されたパスワードが手元に残ってしまったら,結局は誘惑に負けうる。手元にはパスワードを残さず,ただ復号の方法だけを保存しておく。おれは LINE をつかった。LINE には「送信取消」と「削除」というのが別々にある。送信取消は,相手のトークの履歴をも操作するが,削除は端末にとどまり,友だちのもとにはメッセージが残る。LINE で文字列を送ってから,それを自分で削除するのである。べつに送信取消でもよいが,相手の画面からは迅速に参照できるほうが,復帰する際にはのぞましい。よそに保管させるより,そのトーク履歴に保存するのが手っ取り早い。そのような考えのあってのことである。自分ではもう暗号すら取り出せなくて,復号のためのメモだけが残っているのが好ましいのである。

 

ひととおりすると,はじめに生成したあたらしいパスワードは,自分では思い出せないが,外部からは取り出せるという状態になる。くりかえし言えば,曲がりなりにもパスワードを外部に保存するというのは,慎重家にとっては恐るに恐れつくせぬ状態ではあるが,なにかを絶つにあたっては,非常によい状態でもある。

 

友だちは,けんかして関わらなくなったり,音信のしばらく途絶えるということがある。また,まいにち顔を合わせる習慣は幸いにも保たれているのだが,保存するよう頼んだものは紛失してしまっていた,ということも当然ありうる。そのため,暗号を教える友だちは1人にかぎらないほうがよい。浪人期のおれは5人ほどに頼んでいたように思う。たとい結託しても,技術の無知から特定には至りえない,また友だち同士では関わりのないはずの5人を選んだ。ぜんぶ合わせると浮きあがるようにしないかぎりは,友だちごとに暗号を変えるのもよいだろう。

この方法は,いざ復帰するというときに,友だちの手を借りねばならないのもよい。生半可な誘惑では,暗号を持ってこさせる労力を友だちに費やさせるのは,あまり是とはできない。

しばらく控えるけれども身を消すつもりはないとか,身を消すにしてもアカウントごと絶つのは剣呑だから,ひっそりといなくなりたいとか,そういった場合には,このようなことがよいのである。

 

でも,浪人期のおれは,結局,荷風の『すみだ川』とか,鴎外の『青年』とか,エミリー・ブロンテの『嵐が丘』とか,イシグロの『日の名残り』とかを読みふけって,SNS半導体も断然関係のない逃避行動に走ってしまったので,こんなことはおれには大したのではないのだなと悟った。自分にはそれ以前の問題があったと見えた。しかし件の方法の効用は少なからずあったわけで,一時期,SNS をみて社会の些事に心を惑わされず済んでいたのは,ともあれよろこばしいことであったな,などとは,ゆいいつ思い出されるところである。